延命措置は時として本人を苦しめる
医療の力で生きなくてはいけない命もある。
旅立ちたい人までもが、脱ぎたい肉体が重石のようになってしまうこともある。
本人が、延命を望むならよいのです。
魂に還れず困ることの無いようにして欲しいですが…
本人の意思確認も出来ぬまま、選択の決断を迫られる親族は困ります。
フツーに考えたら「助けて」くださいと医師に言うのだろうか。
意識は戻らないかもと、思いながら長く続くかもしれない延命に戸惑ったり。
人は命を悔いなく生きていられれば、寿命がいつ尽きようとも「幸せ」「本望」なのです。
元々は魂の存在の私たちは、肉体と言う枠を選び、次元を下げて、人生を楽しみに来ました。
喜怒哀楽は魂の絶好の遊びなのです。
いろんな体験をして、魂に還る。
それなのに肉体を離れるのが惜しくなるのはなぜなのでしょうか?
それは、悔いがあるからです。
残された方も、
「もっと優しくしておけばよかった」「もっと話しておけばよかった」と、もっともっとと、欲が出ます。
人生が終わろうとする方も、やり残しを諦めきれなければ「もっとああしておけばよかった」「あれをやり忘れてた」あーしておけば、こーしておけば、あれもこれもと欲が出ます。
肉体の意識が終われば、人は動くことができません。
もう実現することはできない。
あーしておけばと言う、欲を晴らそうと、
魂の帰還を妨げるのはエゴ行為です。
死んでほしくないと思う気持ちは人間だものわかります。
肉体がある事が人間だからです。
目に見えて、触れて、暖かいぬくもりがあるからこそ命ですから。
それが、体験できなくなるのは寂しさがあります。
しかし、人間の本質は、目に見えない領域の方が大事なのです。
楽しかった事、苦しかった事、感動した事、などなど
そういった思い出を十分に体験しておくことに意味がある事を教えているのです。
愛した人が死んでしまうのは悲しいですが、
無理やりに延命措置を取る事は、残された者の執着と懺悔と言う重石。
見送る側に立った時、あの人が居なくなったら自分が悔いるカモ?と思える人がいるならば、日頃から素直になることを心がけてください。
悔いる前に「今を生きる」ことです。
悔いなく、自分を知り、自分を生きることです。
誰もが、自分を生きている実感があれば、突然の死が訪れようとも、悔いなく魂に還れるのです。
「あーあ、終わっちゃった。サー次行こー。」って感じです。魂には次の任務がありますから。
誰かが始めなければ、始まりません。
自分が変われば、世界は変わります。
(自分の目にするものが変わるから)
自分の世界も、
他者の世界も
自分の中にあるのですから。
諸行無常
万物は常に動き、転じて消滅と再生を繰り返す。