くろねこくぅまんplus

浸潤性小葉がんになった。そしてスピリチュアルに目覚めた。手術の事とか体の事とか、誰かの「気づき」になればいいな。

感動したのです/間に溢れる意志

 

男性陣女性陣 合流し、

 

母公堂へ

ここは先生ご夫妻の思い入れのあるところ

予々お話を伺っておりました。

私しも、先生方に出逢えたことを

祈りと感謝の思いを届けたい

そんな気持ちでおりました。


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事は

私たち秩父曼荼羅小屋(武蔵求道之会)が堂内で

祈りを捧げていました。

奏上(参拝)も終盤

祈りの余韻と気持ちの中の締を行うところの

はずが、後方で行の順番を待っていたであろう

別の団体がお堂の外から

祈りの奏上を初めてしまいました。

 

私たち弟子としては、

終っていないのに何事?!と言う心境です。

また、師先生はどうなされるのだろう…

または、なんて失礼な団体だ!

と思っていたことでしょう。

 

動揺がざわつきになっても仕方がないかと

思われる状況です。

しかし、

秩父曼荼羅小屋の修行者は

誰一人、動かず、騒がず、

後方での別団体の奏上が終るまで

待っていました。

 

文句も、振り返り茶化すこともなく。

 

 

前方の静果先生から

即座に

「待って、ゴメンね、大丈夫、」と言う

オーラを感じていました。

峯龍先生も

確認に一度振り返り、姿勢を正し座り

ただ待つという氣を発しておられました。

 

内心は同じ行者として

「それは無いぜ」と、

悲しみがあったのでは無いかと思いました。

 

 

私はこの時

感動で涙が溢れました。

 

神仏、人に対し

○祈りや敬う事

○相手を尊重する事

○自分を立てるという事

○筋を通すという事

を、誰ひとりとして悪くすることなく

納めたのです。

 

待つという沈黙で。

 

 

神仏を敬うことは

祝詞や真言読経を上げればいいというものでは

ありません。

奏上が終わったあとの余韻、間、空間にも

感謝が溢れている。

それを、ジンワリと体感することも

(沈黙を感じることも)

目には見えないエネルギーとの

対話なのではないかと思うのです。

 

その事を体現として知っていて、

示している。

そう思わずにはいられなかった。

 

 

師への信頼と

師の教えが、

教えを受ける者にしっかりと伝わっている。

また、師も会員を信頼している。

そう思えたのです。

 

私はなんて素晴らしい経験をしたのかと

今思い出しても震えます。

 

 

夕食時、

師へ

この時の学びに感謝するとお伝えさせて

いただきました。

 

師いわく

「こちらの事情(言い分)もあるように、彼らの事情(言い分)もあるだろう」「彼らの行動が失礼だと思うのは、そうかもしれないが、それはこちらの言い分…」と

仰っていた。

不服はあるが、神仏への祈りを捧げるという行いは同じであると…。

 

この言葉が聞けて

また、

峯龍先生 静果先生とのご縁に

感謝しかなかった。

 

そして、秩父曼荼羅小屋へ集う仲間との出逢いに

感謝した。

 

 

 

私はやはり、

八大龍王様に導かれたのだと思う。

 

今回の天川行も家族の急病で危ぶまれたが、

結果として来れている。

 

この宇宙のシナリオにも感謝だ。

 

 

こんなに愛のある体験があるのだろうか。

 

 

 

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