今年は『釈迦ヶ岳』に登る
朝5時30分 バスで登山口まで向かう。
昨日通りすぎてきたあの場所から登るらしい…
2時間かかる( ̄▽ ̄;)
バス一台が通るのがやっとの道を
グングンと行く。
地元ドライバー強し!
バスのなかでオリエンテーションを済ませ
朝昼用の特大おにぎり弁当を頂く者がいたり
休養する者がいたり
各々が準備をおこないながら静に過ごす。
山にはトイレがない。
登山口の公衆トイレで用を済ませ。
いざ…
山々に祈りを捧げ(勤行)
決められた隊列で挑む。
山林と湿地
アップダウンと平地
が交互に現れる。
標高もかなり高い位置からスタートしている。
気持ちのいい山だ。
後半になると更に勾配が出てくる。
気圧の影響も出てくる…。
頭痛感じ始める。
呼吸をおろそかにしてはいけない。
そんなことを思いながら
草木の根っこや石に気を付けながら進む。
このあたりから体調の変化を強く感じる人が現れ出す。
メンバーは20代から70代と年齢も体力も千差万別
仲間として身が引き締まり出す…。
日差しを遮る木々も減った勾配はかなり堪える。
私は勝手に広報部と名乗り
先頭の事務局長とは反対側の映像を残すべく
後方を陣取る。
また、山行の経験が少ない者として
峯龍先生の近くのポジションに付き
先生の着目点を追うように学ぶ。
一石二鳥作戦を慣行するわけで (苦笑)
後方からは
メンバーの足取りやスピードに変化がないか。
気持ちの状況に変化はないか。
などが分かりやすく読み取れ 勉強になる。
全体のと個々の様子を見ながら今後の展開やもしも…を予測して歩くのだ。
どうすることがトータル的に良い選択なのかを常に考えて動く。
無事に登拝 無事に下山
それがベスト!
もっと突っ込むと「生きて帰る」
そう言うことなのだ。
集団行動については過去の学校PTAでの活動経験が役にたっている。
好きでやって来た接客業も大いに役にたっている。
こう言う様々な経験から、
人生には無駄がないと知るのだ。
過去のイヤな体験や経験もそうなのだ。
その宝を今に『どういかすか』
活かせてこそ自分の価値を自分で知ることが出きる。
話は戻って。
千差万別の体力気力も お釈迦様の元へ行こう!と
奮起して進む。(悔いは残せない)
団体行の1つは ペースを合わせること。
健脚であろうと、
若輩(弱輩)であろうと…。
ペースの遅いモノに寄り添うが基本。
体力など状況をみて
・荷物を分散したり
・休憩のケアをしたり
・声かけし合ったり
・手を引いたり支えたり
その時 助けられる側も 助ける側も
どちらにも『申し訳ない…』という
気持ちが沸いてくる。
これは人間が思考で作り上げた「魔」である。
自分が助けられる側に居る
と思う事が悟り的にはナンセンスで、
「迷惑がかかる…」と思うくらいなら早く応援要請してよ!と思うのだ。(お互い様ですから)
我慢とは、体力気力を限界近くまで追い詰める「行」をやってるようなもので、団体で足並み揃える「行」では行のレベルを上げるようなものなのだ。
もう一度いう。
現世での山行では「メンバーで登頂登拝し、無事に下山」「生きて帰る」が目標であり、それしかあり得ない。
他の目的や体験は各々の課題なのでまとめきれない。
その中で限界に挑戦する を経験するものもいると言う事なので、何が良くて何が悪くてなどもない事になる。
つまり、山に入るということは
生きることへの学びがいっぱい
ということなのだ。
何事でも、
助けを乞う必要がある者は
「すまない、ありがとう」の気持ちは大事だが、自分を謙遜しすぎてはいけない。 助けていただいたのならその思いにどう答えよう。どう返そう。
そう思い、「助けてもらいなさい」
それが当たり前なのです。
その思いやりの行動が良い循環を起こしますから。
助ける側に立った者は
より一層、謙虚に凛々しくありなさい。
あの時あーだった こーだったなど無用です。
相手を可哀想だと卑下することも無用です。
「自分の出きる範囲で惜しみ無く与えなさい」
そうすることが本当の思いやりです。
助ける事がイイコトダ と打算で助けるのではなく、
当たり前なのです。
助けられる 助ける と言う事を
優劣で観ている事態
学びが足らないと言うモノです。
己をナンだと思っているのだ!
森羅万象の一粒に過ぎないのだぞ。
生きてこそ。
おまけ
過去にない良い経験ができました。
これも秩父曼荼羅小屋へ集ってくださった方々と、我々の行を支えてくださっている現地の方々のお陰。
助ける側(先導する側)も結局支えられている(助けていただいている)。
巡りとはそう言うものなのですね。
全てに感謝
今日も生きている
感謝。
懺悔懺悔六根清浄~💫
秩父曼荼羅小屋