私の未来ビジョンとして
祭壇の前でひたすら祈っている
(もくもくとただ祈ってる) (ガチで)
と言うものがあった。
これはイメージとして湧いてくるもので
自分も不思議な位「ハイハイ了解」的なノリ
なのだ。
だから、前世では僧だったな
とも思うわけですね。
(仏教系がすきだから)
イメージを不思議な位自然に受け入れてるから
それに向かって 今出きることをしている
それだけのこと。
そんな根拠もない事を
「本当かなぁ…」
「現実社会ではこうなるといいんだけど」
を加えて動くと
まず、上手く行かない(笑)
「じゃーいいんですね!」と開き直って
受け入れることにした。
そしたら「チョー楽」
そして、うまく行くとしか思えない。
昔昔、我が家は
庚申信仰など、信仰の集まり場所になっていたっぽくて、改築前の家から神仏の掛け軸や、像が多く出てきた。多分、明治時代までは活動があったと思われる。
こういった情報も
曼荼羅小屋にお世話になり始め、
友人の意識改革が進み
私の周りにいるメンバーが理にかなっているから
だと思っている。
(捻れをもっている人が少ないと話がスムーズなのだ)
そういう日々現れる現象や資料などを根拠に
私のインスピレーション的
未来予知(発想)を付け足していくと
辻褄があってくる。
過去に記事にした
山に呼ばれてる…と言う感覚も
井戸に白蛇神がいる感覚も
祈願祈祷と癒しに重点を置くことも
人が集まる家にこだわる事も
(相談や学ぶ場所として)
そして、
霊性、精神、意識の向上への
強い使命感のような 突き動かされる思いも。
(⬆️これはそのうち落ち着く、きっとフェイズが変わるから。今、私に切磋琢磨しよーぜ圧を感じている人はラッキーですよ。なぜなら、巻き込み式に向上すること間違いなしですから実証済み。 本人が望めばね)
全てのエネルギーを均等にみた時
輪廻転生システムはある。
森羅万象と言ってもいい。
家系の因縁
土地の因縁
などもそう。
私たちは、自分の為にも他者の為にも
社会の為にも自然の為にも
この輪廻を軽く穏やかなモノにする必要がある
悪いパターンを繰り返す事を変更する必要がある。
悪縁や悪習を断ち切り終わらせる必要がある。
それが悟りと同時進行に起こる。
悟ことは人間にとっては必項目なのだ。
今、解らなくとも
何万回何億回 生まれ変わってでも
いずれわかる。
ただ、来世、さ来世も人間に生まれるかは
知りませんよ。
でもって、
悟を得れるのは、人間だけですからね。
いずれ廻ってくる悟りへの道を
今からコツコツ始めるのか、
自我ばかり増幅させて
執着と欲を楽しむのか…。
(人間臭く→争いから抜けられない)
どちらが特なのか…。
選ぶのはあなたです。
悟り とは
特別なものでも
神々しくも恭しくもなく
『そう言うことか!』の積み重ね。
だと思っています。
肝は
現状(今)の自分を嫌になるほど受け入れる事です。
悪識自分も「私だ…」
私ははなんて
醜いんだろう、恐ろしいんだろう、
ズルいんだろう 卑しいんだろう…。
までも受け入れる。
でも、しょうがないコレが私!
と、割りきる、開き直るのではなく、
『だからごめんなさい、懺悔します』
『清く正しく嘘なくするために努めます。』
『私何をするべきだろうか?』
と言う自問自答と、改善のタメの行動なのだ。
ポジティブに努めようと
『だってしょうがないじゃない』と言う考え
受け入れる風な言動と心は逃げ
(納得してないのに、その場しのぎの逃げ)
(悔いが残るようじゃさらに悪い)
悟りでも、ポジティブでもありません。
反って ちょーネガティブの悪業です。
常識的に出回ってるスピリチュアル知識の
カルマの癒しとか、手放しとか…
そんなやり方で人間の悪い癖が正せるわけないじゃん。
コツコツ積み重ねた(行)が
いつの間にか大きな気付きになって
『大きく腑に落ちる』
↕️
『変容していくのがわかる』
となるのだから
菩薩心が分かったって
それもまた通過点でしかならず、
上下で言うなら
上がっては 下がって
また少し大きく上がって
ちょっと下がって
または、大きく下がって
を繰り返す。
現世では陰陽、善悪、
あるない 全て繰り返すしかないんですよ。
嘘のない
諦めのない
屁理屈のない
自己防御(言い訳)のない
自分の今を知る
(今の立位置)/0ポイントフィールド
裸の心を受け入れる
それが悟りでもあり
スタートなんだぞ。
そのさきに
自分の運命やら宿命やら痕跡が見えてきて
宇宙の法則、古の智慧とか叡智とか
「はぁ 分かるわぁ…」と
なってくる。
キラキラのスピリチュアルや
カチカチのスピリチュアルも
自己との和解がなければ、
ただの妄想と執着だね。
自然からの恩恵も
不思議な力も、使えるわけもない。
おまけ
多くの人が頭では分かっているけど
怖くてできない。
それ、知ってる。
変わることは怖い
先が分からないし、傷つきたくないから。
でも、その怖いも、傷ついた…も
造り出しているのは自分じゃないですか。
それ、越えないで どこに幸を知れるのだろう。
恐れがあるうちは不幸の意のままである。
恐れとも仲良くなろう。