くろねこくぅまんplus

浸潤性小葉がんになった。そしてスピリチュアルに目覚めた。手術の事とか体の事とか、誰かの「気づき」になればいいな。

内観

これは私の越えるべき業だと思います。

あまりにも高望みな設定をしているので

(これにも意味があります)

私の表現する

「優しさ」「思いやり」「信じる」「励まし」

が現世(常識的観念)からズレている事があります。

口下手、言葉足らず、素直、

ストレート(裏表がない)な表現が更に

誤解を生むのだと言うことも理解はしています。

 

全てを踏まえて

感情のぶつかりあいで敵を作るかも知れない事も

理解してまでも覚悟の上で

言わなければならないことがある。

(言わざることもある)

 

いつか分かち合えると信じているから。

自我が騒ぐのか

真我が騒ぐのか 

わかりません。

 

しかし、納得がいかない

納得がいかないのは 

伝えないを選択しているからだと解りました。

 

相手がシンリを受け入れられる状態なのか?

伝える(問)べき相手か?

伝えら(問)れる状況なのか?

など、精細する必要がある。

 

縁に任せるべきではなく

考慮するべきこと。

やみくもに伝えても意味がない。

だから戒律として法を説くべきではない者たちの

特徴があげられているお経があるのだ。

知りたければ自ら進む事が真理だからだ。

 

教えに沿って

多くの先人達のお心を踏みにじる事は出来ない。

お釈迦様やブッダ、聖者や智慧のある人…

が説いてきた 

この宇宙の理を無視することは出来ない。

 

その理、道、教えを

得れるかどうかは各々が決めることだ。

 

選択 行動 伝達 で

自分の世界は創られる。

質を高く、広く深く

観自在になる。

 


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捻れた煩悩は肯定できません。

(優しさだと理解できても)

そこを許してしまうと

後も捻れるからです。

 

三宝に帰依いたします。

 

 

 

 

心はワタシのモノではありません

心はアナタのモノでもありません

肯定出来ないのは捻れた心の部分であり

アナタの事ではありません。

つまり

受け入れがたきモノは

捻れた心の部分であり

アナタではありません。

捻れた心はほどくことができます。

(苦を滅することはできます)

それが智慧なのです。

 

 

肯定も受け入れも出来ないのは

理に乗っ取ったモノでないからです。

理からズレタモノは

ズレタモノを生み出します。

それは

伝える者として承認できることではありません。

 

 

 

 

ワタシ、アナタ、ソノタ

が良い状態にあるへ 目指すために

一時 苦痛もあるでしょう

この世の悪習が常習になってしまっているのだから

当たり前の事です。

悪習が解らないままでは変わることはありません。

ワタシだけ アナタだけ ソノタだけ

が辛い事なんてないのです。

だからこそ悟りの教え

智慧が絶えまずに伝えられているのです。

辛いときこそ 自から

今こそ学ぶべきです。

ワタシのため(自分)

アナタのため(相手)

ソノタのために。(多くの人)

 

 

 

 


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