くろねこくぅまんplus

浸潤性小葉がんになった。そしてスピリチュアルに目覚めた。手術の事とか体の事とか、誰かの「気づき」になればいいな。

同じ神様だって個性があるよ 再投稿

 

ある日のこと

Aさん

『いいことは形を変えて帰ってくるを体験をしたよ!』

『これが◯◯神様のお導きだよね△△神社や□□神社へも行ったし…』

Bさん 

『良かったね。でも一番敬うべきはご縁のあるご本尊様だよね』

Aさん

『もちろんだよ』

Bさん

『もうひとつは、Aさんを◯◯神様と縁繋ぎしてくれている先人(祖霊や師)が居ることを忘れては行けないよ。先人(祖霊や師)をすっ飛ばして◯◯神様とのご縁があるなんてあり得ないんだから。』

Aさん

『わかってるよ』

『でも◯◯神様ってあちこちにいるよね。何が違うの?』

Bさん

『同じ神様でも、祀られている場所や経緯や信仰する人々によって、エネルギーや性質や役割もかわるから同じ神様だとしても違うんだよ。◯◯神様がいい巡りを与えてくれたと思うなら、一番ご縁のある◯◯神様を敬うべきだね。行者としてのご本尊なんだから』

 

 

 

 

縁には表面的に自力で獲得したと思えるようなモノもあるかもしれない。しかし、何代も前から(輪廻)の因果で結ばれることもある。

今生で築き上げてきた徳や霊性(業やカルマ)により変わる事もあるだろ。

しかし、個人が崇拝する神仏であろうとも他の神仏と無縁だと言うことはないし、同じ神仏名で祀られている神々も役割が違うことも。

師と縁をもち学ぶ為に行ずる者であるなら講のご本尊を先ずは敬うべきである。

個人で、又は先祖代々で祀ってきた神々がいればその神様を尊ぶ。

 

自分➡️師➡️ご本尊➡️多くの神仏

自分➡️祖霊➡️信仰する神仏➡️多くの神仏

 

このルールは変わらない。

参考に追加

分析とベクトル - くろねこくぅまんplus

 

自分より神仏と仲良しなのは師でしょ。

自分よりも神仏に近いのはご先祖でしょ。

 

 

神仏のお計らいと思えるような巡りや采配

ご縁があった!と思うなら

信仰の深い神仏プラス 

先祖や両親、師匠も尊ぶべきである。

 

 

 

これが出来なきゃ、

神仏とのご縁も薄いものになる。

そういう仕組みなのですよね

森羅万象って。

 

 

 

 

 

 

おまけ

 

この秘技を教えていたら

冷静に「拒否されて」

結構ショックだった(/´△`\)

 

教える態度が強制的で

宗教勧誘みたいだとか言われた。

(圧強め…でたこれ。反省なやつ課題なやつ)

 

仏道の教えは強制的にでも

つべこべ言わずやれ!と

取り組ませて、

継続した方が「そう言うことか!」

と、気付きが早いと思っている。

(だから出家と言う方法がある)

 

しかし、嫌々と嫌悪ありきでやっていては意味がない。やらされているとかね。

なぜなら、

カルマの浄化清浄を行う訳だから

浄化清浄から始めなければ成らぬ程、現世の人は穢れているからだ。(思考の癖がガチガチ)

 

真理の教えって タイミングでなければ

理解できない人には出来ないし、

悪業悪行に傾く人は傾く。

 

神仏を信じなくていいから

先祖や両親に感謝する

(師がいる人は師匠も)

それだけでも開運だと思うけどね。

 

 

 

 

 

 

20230516追加

このブログを読んだお相手方から御指導いただきました。

 

コチラ側(私)が

師を思う気持ちが強すぎ溢れすぎてしまい、つい感情的になり、相手とぶつかってしまった。

(私がことの発端…ラシイ)

 

私が師と神仏が同等(同化)して危険だと

相手の印象として、冷静に見た結果「宗教的だよ」という言葉になったのだ。とメッセージをいただいました。

あと、説き伏せても人は付いてこないよと。

 

(笑) なるほど 

ごもっとも。

申し訳ありませんでした。

ご親切に私が

「あやかり万歳信者さん」になったら危険と思ってくれたのですね。

ありがとうございます。

 

 

 

人との会話では

相手の印象で相手の世界を作り上げます。

伝えたい側の意思は関係ありません。

だから浅い対話では本心が伝わらなかったり

誤解が生じるわけですね…。

 

伝えたい要点や注視点(気にするところ)が

全く違います。

これが意識の層です。

 

このブログでも伝えたいことが十分に伝わるとは思えないし、思っていてはいけないわけですよね。

 

 

ハッキリ言いますね。

ここでのやり取りは三宝帰依にあたる行法です。

三宝帰依は人間界での法則なので変えようがありません。

僧にあたる対象者は、指導者、先生、師匠、先輩、親、は明確にこれに当たります。

解りづらいかもしれませんが、同士、仲間、友人、他人、子ども、動物、木々や川なども先生となることもあります。

その時々で学ぶべき相手がかわる。

のが本来の神々のご意志

 

この世の中のありとあらゆるモノ

全てが師となりえる

現に、

この対話での相手と私も双方で学び会うわけです。 相手は先生であり、気づきをくれる人なので。

思いも付かなかった視点で指導してくださるわけです。

(愚痴とか批判とかも指導と思えばありがたい事に)

 

話を戻します、

私たちが修験道を学ぶとなったときの師は峯龍先生となるわけです。このお相手との共通項は修験から見た神仏信仰の話だったわけですから。

平等に見れば教える立場も教えてもらう立場も同じ人間であり修験者ですが、公平にみれば、私の方が仏道に熟知している訳だから、私が教える役で相手が教えてもらう立場になることが必然的に多くなるわけです。

 

ここでお伝えしたいのは

◯師を持つ事の稀(まれ)だと言う貴重吉祥と技法(行法)

神仏からの縁の流れ 

◯あちこちの神仏を信仰する必要もない

 

です。

 

秩父曼荼羅小屋または、神仏、師への

信頼や信仰うんぬんが強い弱いではありません。

それも各々の修練や思いでかわると思います。

 

私の体験を、私の言葉で、私が伝え綴るこのブログには、私の生活の中からの学びと復習になる訳です。

ですから、私視点の内容になってしまいます。

 

 

師と神仏のレイヤーをどのくらいシンクロさせるか、重ね合わせるかの、度合いは個人差があるだろうし、三宝帰依への熟知度合いも関わるとも思います。

 

ご心配いただきました人間と神仏の同等視(同化)ですが、分離できないと言うことはないのです。

師は師ですし、神は神ですし、仏は仏です

合体も分解もできます。

全てレイヤー 複数の点や線や面です。

アニメのセル画のようなものです。

 

 

物事を強く言いきる

ハッキリ物をいう

ことが必ずしも良いとは思いません。

しかし、誰かが体験から通じた思いを伝えなくては、人々は思考癖で考え方の領域を越える学びが出来ないのです。(対話重要)

相手に指摘されて気がつく事は

自分の個性や伸び代を知れるチャンスでもあります。

 

欲の誘惑が蔓延る現代で自然の摂理に任せっぱなしでは精神が堕落するだけなのです。

それも摂理です。

急速に堕落して、永い年月をかけて浄化向上するだろうけどw

 

だから今生で霊性をあげる、悟りをもとう、と考え思うなら精神意識からの向上を求める意欲と決意が必要なのです。

そこで仏道の教えなのです。

 

言葉や態度に嫌悪感があったとき

それはチャンスなのです。

なににモヤったか?

必ずエゴがあるはずです。

そのエゴはどこを目指してのそれ

なのか… よくよく観察する事です。

 

ここでは、

新興宗教への勧誘だろうが、脅しだろうが

事象とする現実は重要じゃなくて、

精神意識の向上には

今ある現状を

その状況をどうして招いたのか?

なぜ相手を疑う心理が働くのか?

どこから嫌悪感覚が沸き上がるのか?

どのポイントで口論が生じるのか?

争うのか? 警戒するのか?

分かってほしいと望むのか?

など

 

自分の心の深掘り

内観する事に意味があるのだと思います。

(余裕があれば相手の立場になっても考える)

 

実際に勧誘されたのなら

不必要なお誘いはキッパリ断る事も訓練です。

ズルズル付き合うのは不親切ですし。

 

断然正しく学んでいればそんなものに騙される事はないのです。

 

私の場合、相手を思う気持ちが有り余りすぎて

1日でもはやく教えに出会えた喜びと、この世界は神仏に愛されてやまない、常に愛されていた事に気がついてほしい。その希望が情熱(熱量)や圧力になる訳です。

相手から言わせれば大きなお世話

分かってるよ やってるよ! 

と言う事なのですよね。 

 

更なる向上への勧誘はエゴとなり

迷惑がられます (苦笑)

ですから、望まれなければ与えられない。

 

 

 

熱量、圧力が強いのは私のコントロールすべき課題です。精進致します。

ありがとうございます。

合掌