当講では
意の話をベクトルを用いてよく話をする。
真言、陀羅尼助、お経、祝詞、詠などなど
神仏作法には向き合う方向性からキモチを大切にする。
これは自己のキヅキの段階や
向き合う姿勢の理解熟知度合いで
変わるのだけれども、
ある一定の立場になれば、納得はせずとも
そうらしいから やってみようと行動する
心の余裕(心の素直さ)が必要である。
わからないのなら納得が行くまで話し合えばいいのだが、多くの者との共有時間は限りがある。
また、自分の思考の癖 ねじれが
どこで発生し、
対話中どのように変化し、
どのように解釈を変え、
どのように現象と感情を混同させ、
どのように他者目線で、
どのように自己保守になるのか
自分の事を知る必要がある。
感情だけ中心に対話を回していく人はボロが出る。
自己分析と神仏との対話はイコールである。
そう言う教えも説いている
月次龍王祭の1コマ
講メンバーへ
私で良ければなんでも聞いてください。
FUSAYO