ここしばらく民族学、民間信仰について思索している。
気になった単語を検索
論文や、個人のブログ、大学のYouTubeチャンネル
が主教材となる。
思想や着目点の展開に興味が持てれば、書籍をみたり、個人の研究を深掘りしたりしている。
今回の紹介動画は 「恵」というお題ではあるが、命と神、社会風習、風潮と人間の心と、バランスよく述べていると感じる。
私だったら
罪という意識や心情を悪しきモノにも、神聖なモノにも作り替えるのは人間の心なのだから、人間の性根を作り替えねば…などという展開になり、このような終わり方にはならなかったな…と思う。
死を意識しすぎない流れの今日
戦闘ゲームをしながら「しねー」「コロシテヤル」と叫ぶ若者。人間都合で飼ったり捨てられる生き物。法的権利や安全を無視した伐採や開拓。
命と死というものが軽い印象。
これらの行為も必然となっただけの事ではあるが、なにか足りない気がする。
死、命、という単体の意味を軽くするのと
経緯(なぜそうなるか)への意味が異なる分岐点と心の向け方が作用する気がする。
死を意識し過ぎないのと、利益せしめられた命への感謝は別物だと思う。
科学、社会が豊かになると宗教や信仰へ気持ちが向くようになる。それは、生きるのに苦がないからだ。
信心の質に濃淡はあれど、そういうもののようだ。
きっと、野良猫のように喰ことに必死にならずにすむと、神でも他者でも他の動植物にでも与える余裕が出来るからだと感じる。 心の余裕。
言葉や単語の意味に感情をのせずに考えて欲しいと思う。
見る方向性や立場、訴えたい事柄によって意味なんて変わるからね。
釈尊の教えでは
動物だろうが植物だろうが人間だろうが、命(生きる権利)を利益せしめることは罪である。
実際に手を下す人間よりも号令を出した人間の方が罪と説かれる。
私の手だろうが相手の手だろうが同じだからだ。
なぜならば
号令がなければ、その命は止まることがなかったから…という因果法則から説かれている。
人間が生き、植物を生かし、動物を管理する
そのための罪
命をつなぐ命のリレー
そこに悪があるとするならば、心の問題以外にないように思う。
供養という行為(考え)は知能の高い生き物特有の行為(情)だと思う。
供養という意味に贖罪や穢れを含み、忌み嫌うのも命を奪う事への恐怖からだとするなら、誰も心地いいことだとは思っていないはず。
その恐怖を嫌い、死を嫌うことと
生きるために奪う事を分けて、
綺麗事だけ都合よく考えるのはズルいと思う。
鮭の回帰
こん棒にさえも神の名を付け、神として祀る
森羅万象(自然界)に生きて自然界に散る
人間が出来る供養の最上級かと思った。
丁寧な漁だよな…。
食事の前のいただきます。剪定する花に感謝の言葉を、抜かれる雑草に声掛けを… これも日常の供養と思い実践する。