人間の欲(苦)というものは
欲を満たした快楽から来ている。
欲(望み)➡️満たす(叶える)➡️幸せ(嬉しい)=快楽
つまり
欲から得られる楽をしあわせ(いいことだ)
と思ってる。
欲求対象の善し悪しが分かれ道
エゴはね基本、打算的
打算的だから
「意味ないな」「不要だな」「損だな」
と思えれば、すぐに滅することができる。
いつまでも「囚われている」「変われない」と思うのは、
エゴが「囚われ」にメリットを感じているから。
それが執着でありエゴであり、苦なのです。
「信じられないな」「満足行かないな」「ケッ」「知ってるよ」「分かってるよ」「なんで私が」「私は関係ない」
が善行を妨げる。
怒りは最大のデメリット
見下しは最大の愚か
怒りを行動の燃料にしている心理操作
優越を得だとおもう心理的依存
情報をアリのままに観ることが六根清浄
それに振り回されない(影響されない)が六根清浄
時間と空間は、進め しかないのだから、
物質存在は 進めしかない。
自分の納得が先➡️覚悟➡️信➡️理➡️真
山伏(行者)は誰でもナレルけど、修験者はそうじゃない。by師匠
これはかなりのパワーワード…
この意味の中には 本気が隠れてる。
こういうの好き……。
生まれたと同時に死刑決定
笑うしかない。やるしかない。
天や極楽って心のことでしょ?
私なんて…、僕なんて…っていう傲慢マジでムダ。
どうせ私は、どうせ僕は…マジでムダ。
どうせ…が嫌だったら やれ。
どうせ死ぬ。
凹んで、傷ついて、落ち込んで…なんて当たり前
人間は不完全。
不完全が嫌なら解脱まで 地道にやれ。
少しでも やることやれ。
堕ちたら開き直って、腹くくって
這い上がれ。
堕ちるのが当たり前 出来ないのが当たり前
修練で越えろ。
立ち上がる(精神体力のリカバリ)速さが問われている。
地道な修練の差が ここに出る。
欲求(欲)➡️求心➡️努力➡️根性➡️継続➡️気づき➡️悟り(ひらめき)➡️進歩 ∞ ENDLESS
自分が求められていることはなんなのか?
自分が求めていることがなんなのか?
行者のままでいいのか
修験者がいいのか… で優先順位が変わる。
階層は真実か否かで純度が変わる。
あぁ…… なんでこんな簡単で優しくて安心で、
勇敢な法の理論が分からないんだろ?
(仏法僧の三宝のこと。)
脳ミソで分かってっても、
心が分かってなかったら、
解らない、出来ない、見えない、見てもらえない…
って残念なフィルムは剥がれない…
ほんと、なんで?
何でなんだろ…
この感覚が層やゾーンの境界線な気がする。
この感覚(境界)を感じ続ける人と
払拭されていく人と
もとからナイ人といて、
これってその人の「偽り度合い」「自覚度合い」「努力度合い」で変わってくる。
そういうパターンを私は座標に見ている。
階層は雲泥の差があろうとも、見方によっては
泥が雲になる。
見られる方は(立ち位置、役割)で見られ方が変わる。
自分の監視を怠らない。
のは当たり前 だけれども、
ある程度
仏法僧への帰依が整うと行として有効
自分ルール、自分への甘え、自分への可愛がり
があると有効にはならない。
ずっと、同じこと言ってる
合掌