ちょいちょい話題にでるよね
カタ
米国修験者の彼が
師から最初に指導されたことは、
「公園へいってごらん…」というもので、
とても「ショック」だったのだとか。
修行っていったらもっとこう……という理想があったかららしい。
しかし、彼は師の言ったことを守り、
1ヶ月公園へ通い
そして、気づいた。
「先生は初めから答えを教えてくれてた」と。
私からいえば、彼は
カタにはまったから、キヅキが訪れたと考える。
カタを守ったから、キヅキを得れたと考える。
言い付けの内容が「好き」だとか「嫌い」だとか関係ない。
実践したかどうかが、結果を出した。
基礎基本のカタがわからずして
なにが応用なのか。
なにが素晴らしく
なにが劣っていると測れるのであろうか。
比べる対象があって初めて違いを知る
所属するグループ、クラス、組織の
ルール、規律、理念だってカタ
指導を受けるものが指導者から得ることはカタ
カタがなければ、カタに縛られないも ない。
般若心経を覚えるもカタ
単調読経もカタ
師の教えを守る事もカタ
縛られるから縛られないを知れるのだと思うのです。
不自由があるから自由を知る
そこから 自由自在が始まる。
観自在のはじまり
おまけ
基礎基本が共通認識であれば、疎通が楽になる。
基礎基本から言語での共有がしやすくなる。
意識的なカタの継続か無意識になる。