先達になるとは…を考えている。(常に継続中)
先達は、先達であると認めてくれる方がいるから先達で在られる。
例えば 認めるとは…。
あの人先達なんだって…(先達というらしいよセンタツッテナンダ)
から
先達なんですか?…(珍しいですね感)
から
先達(様)なんですね!…(称賛感)
先達であることを許可します…(承認)
と、認識の差はあれど、知ってくれる人があって在られるもの。
相手が在っての事。
だがしかし、
それだけで成り立っていたら、常に意識は外向き(客観的、外部の目線を気にする)であり、先達で有ることの意志は薄れる。
(見られていること、外見外面ばかりを気にするようになると、内面の規律が曖昧になる恐れが…)
自己を見つめ 自己に恥じぬよう
自己を改め、自己を磨く。
直向きで謙虚な行いがあって
己自身が先達であるのならば…と認め精進できて
やっと、バランスのとれる先達になれる。
そういう事なのかな…。
案内することだけが先達でもなく
教える事だけが先達でもなく
見本になるような所作が出きることが先達でもなく
総合的に人としての生きざまや、環境までもが対象として先達として在ることに値してくるのではないかとおもっている。
だからと言ってカッコ付けたり
背伸び、やせ我慢、虚像であっては
自分にとっても 相手にとっても
良い巡りにはならないので、
自分の立ち位置と加減と少しの努力範囲で
向上と学びを繰り返す事かと思う。
少しの努力と質のアップが常になって習慣常識化すれば、確実に自己は変容している。
続ける事
継続性って根気と根性が要ることだと思うもの。
おまけ
見方によってはぁ
先輩だって先達
親だって先達
専門的プロや職人だって先達
では修験道先達とは どういう者か…
修験先達を目指す者で在るならば
修験先達袈裟を受けると言うことに
どういう意がのって(祈って)いるのか…
内外ともに一手二手先も後も考えてみると奥深さが分かってくるのかと思う。
有難いし心強いと私は思っている。
これは永遠に続くお題なのかもしれない。
どう生きたいか…と同じ意味なのかもしれないな。
そんな今夜は、満月でした。
ある日の夏の風景