くろねこくぅまんplus

浸潤性小葉がんになった。そしてスピリチュアルに目覚めた。手術の事とか体の事とか、誰かの「気づき」になればいいな。

自分に問う

 

 

いるか、いないか

やるか、やらないか

 

は、

 

いたいのか、いなくていいのか。(いたくない)

やっているのか、いないのか。

 

 

も、問われている。(気がする…)

 

 

 

それもこれも、やる気を視られている

そして価値も視られている。

 

そう感じる 今日この頃。

 

 

 

私の目的は真の言霊使いになること。

有言実行はもちろん

波動、周波数、場への干渉も祈れるように。

神仏の意を聴けるように…。

 

身口意の一致は不可欠。

 

 

目標は師 

 

 

 

 

 

私は信じる力を信じている。

 

私は祈りの力を信じている

 

私は自分の中に絶対だと思う真がある。

 

 

 

 

 

目標+意思は目的達成の 通過点

そして目的も通過点

 

 

古人の跡を求めず 

古人の求めたるところを求めよ。

 

 

 

先人の後も追えない者に

先人の跡を求めるコトなど出来るのか…。

 

 

先人の見ている手前も見れないのに

先人の見据えている先が見えるのか?

 

 

先人が感じている目の前のモノを共有なくして、先人の感じたコトを感じられるのか?

 

 

先人の想いも汲み取れない者が、後世に想いを伝えていけるのか?

 

 

そこに疑問を持てない自分にはなりたくない。

 

 

 

 

 

誰かが必要になるかもしれない

先に私が出来るようになろう。

誰かの手助けになるかもしれない

先に私が経験しておこう

 

他者、他の事を心配する前に

私が私の救いになろう

私を救わなくても済むように

私の事だけでも心配にならないように

 

 

 

 

この記事を参考にするのもしないのも

読者の自由

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おまけ

 

真の行者であり弟子である者は

ある意味、貪欲でなくては

自分の成長にはならないし、

偽善だ。

 

 

師の意思を吸収しよう、活用しよう

使えるようになろう と思わなければ

いつまでも半人前だ。

 

 

お先にどーぞ と譲っていたら

いつ、先人を越えて行く?

越えられなくても、菩提心はどこで発揮する?

 

お先にどーぞ は菩薩ではない。

お先にどーぞ自分は自分で越えられます。

で菩薩である。

 

 

もう譲らない。

私は行く

 

私は私に問いていく

 

 

まだまだ、くにゃくにゃだけど

私に負けない。