貴方と相手は”1つ”でありながら、同一では無い。
つまり、同じ生命であり同じエネルギーでありつつも、個性や意識は全くもって貴方と同一では無いという事。
いつだったか、
こんな言葉をどこかのブログで読んだ。
まさにその通りだ。
前回の記事の続き。
悟った人が、いつか味わう馬鹿馬鹿しく思う(感情)
には、まだある。
宇宙は全てがヨシだからだ。
「全てが肯定」
要は、悟りの考え方は、身に付けば実に生きやすくなる。しかし、悟り的な思考で生きなくとも、「それでヨシ」なのだ。
つまり、自分に偽り苦しみもがいても、本人が好ければ
「ヨシ」なのだ。
それなのに、わざわざ波動を下げて教えを解くことに意味があるのかと、「迷い」が訪れるのは当たり前だ。
何が正しいのか分からなくなるからだ。
正しいが無いと言う事が解っているから、分からなくなる。(宇宙は矛盾があって完璧)
しかし、宇宙の統合には人の使命である、「人の為になる」を使命として必要無くする事が必要なのだ。
使命と思わず、当たり前。ごく自然として行動する精神になること。
全ての人が、自分の魂の声と肉体の声と思考とを一致させ生きていく。そうなれば、教えも悟りも学びも不要。
神との交信も、仏と共に調伏も自然にできている。
そして、人々はお互いを尊重しあい、調和で生きていく。そんな世界が人類のヘブンであるなら、
そうなることを望むから、悟り的な考え方が今、必要なのだと思う。
矛盾ばかりの悩みのなかを、めぐり巡ってお釈迦様も、
悟りが人の道となると説いたのには意味があり、
今(いつでも)なのだろう。
他者と比べず、依存せず、自分らしく生きる。
それが一番。
この世とは
わざわざ、分離して統合する。
実に壮大で面倒な業だ。
それだけ、今がスペシャルな時代なのかもね。