また、激長い紹介になります。
前回の投稿の付録のようなものです。
それと、私の考えとして
人間は時空間(場)という意識(意)をもう少し大切にとらえた方が、良いのではないか?と考えています。
私たちは、個として存在し始めてから直ちに時間と空間を発生させます。それが場です。
つまり、人間1人一人が別時空間に存在している。
しかし、共通した現実世界がココにはある。
時空間と言う情報と意識をとらえる考え方、感じ方が人間の意識領域を広げるきっかけになると考えています。
マルチユニバース的宇宙観と、集合意識の捉え方の参考の一助になれば幸いです。
「隠れていた宇宙」(著:ブライアン・グリーン)
(紹介文より)
この現実世界の宇宙は実は「単一宇宙(ユニバース)」では無く「多元宇宙(マルチバース)」であるという一昔前なら「SF」で片付けられていたアイデアが今や先端の物理学では「常識」であるという事実とその様々な理論について本書は分かり易く解説している。
この現実世界の宇宙は人間には見えない幾つもの世界(次元)を"隠している"らしいという事が数学的には証明出来るものの物理的には全く観測出来ない為に「常識」であると同時に未だに「机上の空論」なのでは無いかとも言われる。
例えば「並行世界(パラレルワールド)」という概念は「SF」では古くからお馴染みだが現実には量子力学の「多世界解釈」などの概念は実際に観測出来ない為に証明は不可能だからである。
微視的な量子の世界では電子などの素粒子は「確率」の「波」として全宇宙、空間に遍く広がっているとされ数学的な緻密な計算によりそのある時点の位置を厳密に求める事は可能だがその粒子の運動量、軌跡については全く判らないのである。つまりその瞬間、瞬間の不連続的な世界である。
巨視的な日常の世界では確固とした「因果律」に基づいた連続的な世界に見えているがそれに慣れている人間の「直感」とは相反する世界である。
有名な光子の「二重スリット実験」で確認されている様に素粒子は「波」の様にも「粒子」の様にも振る舞う矛盾した性質を示す。
言ってみれば微視的な量子の世界では全てが「可能性」(情報)として潜在しており「観察」されたある時点が観測可能な「現象」として物質的に確認出来るのだとも言える。
これを「波束の収束」と呼ぶが収束という現象そのものは観測不可能でありこれもまた「仮説」として未だに疑問視されている。
最大の疑問は微視的な量子の世界には無限の「可能性」が潜在している事は疑い様も無いのに何故巨視的な日常の世界ではその他の「可能性」を排除して有限の「一つの現実」に収束するのか?という事である。
「粉々に割れた皿は元には戻らない」し「形あるものは必ず崩れていく」つまり「時間の経過と共に物質は無秩序さを増していく」・・・誰もが当然だと認識している「因果律」に支配された巨視的な「現実」ではそんな確固とした物理法則を逸脱する現象は通常は起き得ない。(「確率」的には非常に低いけれども0%では無いのだが。)
振る舞いが著しく異なる微視的な世界と巨視的な世界はどう繋がっているのか?が最大の謎である。
その疑問に答える為に「多世界解釈」「ホログラフィック宇宙論」などの様々な仮説が生まれたがどれも「現実」の一側面について上手く説明はするものの全体像を捉えるには程遠い。正しく「群盲、象を評す」という説話の通りである。
結局の所本書で紹介された様々な「仮説」はそれぞれ核心を突いておりどれも間違いでは無いが全体像を捉えるには至っていない。今後も全てを解き明かす事は無いだろう。
何故なら現在の主流科学(アカデミズム)全般について言える事だが「意識」という人間の本質とその主観的な「観察」についてつまり「スピリチュアル」な視点が根本的に欠けているからである。
・・・
量子力学の「多世界解釈」は「波束の収束」は一つでは無く「世界」が「無数に分岐する」としているが実際はそうでは無い。
「意識」という観点から見ると人間の数だけ「現実」は存在しその一人一人の「意識」の「視点」から見た他の無数の「意識」の「重なり」を「一つの現実」(ユニバース)だと全人類が無意識に「合意」している(させられている)からである。
つまりそもそも人間一人一人そしてあらゆる生命一つ一つの「意識」が「無数の現実」(マルチバース)なのである。
本来であれば人間一人一人はそれぞれが全く異なる「可能性」を潜在させておりその「意識」の現れとして量子は人間一人一人に全く異なる「現実」を収束させる筈である。
だが「現実」がそうならないのは全人類の「合意」つまり「集合意識」によって「一つの現実」に収束させられているからである。
つまり目の前に見えている「東京タワー」は世界中の誰が見ても同じ座標に同じ大きさ、色、形で見えている筈である。
目の前の「青い小さめのコーヒーカップ」も誰が見てもそうであり時間についても同様に「世界標準時の時刻」は地球上の誰にとっても同じ時刻である筈である。
だが敢えて言うと「本当にそうなのだろうか?かなり疑わしい」のである。
微視的な量子の世界から見れば人間一人一人の視点によって観察する物質の「位相」は全く異なるので一目瞭然なのだが誰もこの様な巨視的な日常の世界の「現実」についての基盤を疑う事は夢にも無いだろう。
だがそもそも「現実」とは何なのか?という根本的な疑問について結局の所「現実」とは人間一人一人の「認知」(知覚認識)に過ぎないと言える。
そして全人類が無意識にその集合的な「認知」である「集合意識」に「合意」している(させられている)からである。
究極的にはこの「現実」の宇宙の姿も人間一人一人の「認知」が変わればかなり異なった姿に見える筈である。
今現在「宇宙は膨張しつつ空間が何処迄も広がっている広大無辺な星の海でありその片隅でちっぽけな丸い地球が太陽の周りを公転しながらその表面で人間を始めとした無数の生命が生きている」と誰もが当然に「認知」しているこの世界観もかなり疑わしい。
実際には無限に広がっている様に見えているこの宇宙は「虚像」でしか無く人間の「内面」を映し出しているミクロな「世界」では無いだろうか。
つまり人間の「認知」は反転させられて本当のマクロな「世界」は"隠されている"訳である。
哲学やスピリチュアルな領分では古くからこの様な主張が体系的に論じられ科学に於いても最新の「意識」研究が漸くその入口に達している。
人間の「意識」が拡大し"隠されている"世界を「認知」する事が出来ない限り全人類のブレイクスルーはあり得ない。
これ迄の様な「スピリチュアル」な視点が欠けた科学ではどんなにテクノロジーが進歩して物質的に人間が不老不死になったりコンピュータが超進化したとしても結局は人間自身の問題によって崩壊する運命にある。
科学の世界は人間の「主観」を極力排して「客感」的な「現実」を観察する事で成り立っている訳だが上記の様に「現実」とは集合的な「認知」であり「主観」そして「客感」とは想像的(イマジナリー)なものである。
よって科学が行っている観察は「現実」の限定的な一面でしか無くしかも観察する科学者の「主観」によって成り立っているに過ぎない。その集合的な「認知」が確固たる「一つの現実」を創り上げるのだ。
だから科学だろうが宗教だろうが社会だろうが政治だろうがそういった「概念」(システム)が強固に組み合わさり集合的な「現実」が創り出され全人類を支配する。
「集合意識」こそが量子が「一つの現実」に収束する理由である。だから人間一人一人が「意識」を拡大し「集合意識」の"外"へと出なくてはならないのだ。それしか人類の進化の道は無いのである。