武甲山での登拝以降
無知と言うことに 興味が出て
私はなにも知らない……と日々思うのです。
お医者さんの知ってる事を知らない
ケーキ屋さんの知ってる事を知らない
車屋さんの知ってる事を知らない
農家さんの知っている事を知らない。
モノが作られる過程も素材も
……
友人の事も、よく考えれば
知ってることはわずか。
家族の事ですら そうだ。
……
個人が知っている事なんて、この世の全ての情報からしたら微々たるもので、しかし、それでも個人は生きていける。
逆に言えば「知らなくてもいい」訳で。
知らない事を知らない のだから困らない。(笑)
↑と、言う事を「知ってしまった」のだから
無知では無い? とも言える。
人間なんて「常に無知である」と思うことの方が
ちょうどよい気がする。
はたまた、知らない事を知らない のは、
素直、純粋、無垢とも言える。
「概念」「観念」が無いからだ!
これは強い…… Σ(´□` )
ムムムっ… どちらが良いのか (笑)
純粋無垢は最強だよな(赤ちゃん)
でも深まらない…
広がっても 深まらない… (  ̄- ̄)イメージ
中途半端に知ってしまって、
「知った!」と思うことが一番たちが悪い
(以前の私だ… 懺悔)
そんなこんなで
「入菩提行論」
と言う経典があることを知った。
解説本もわりと多数出ている。
(解説本は好みも出るので紹介は割愛)
「菩提心」と言う生き方
コレダ! と、思った。
多くの人は信じられないかも知れないが、
「本当の幸せ」「本当の慈悲慈愛」を知る事は
なかなかハードなのだ。 簡単ではない。
ここまでネジ曲がった世の中で己すら正すのは
人類にとっては苦そのものだろう。
だとしても、近いうちに「悟り的思考」「仏性」を
理解したものがこの世(物質世界)でも勝ち抜ける日が
来るはずだ。
日常生活を全て悟り的活動行為に没入するのは
無理だとしても、知識や行動として
「知ってみる」べきであると考えている。
また、
「伝える」「伝播」「伝達」と言う行為
自分が感じたこと。
自分が学んだこと。
自分が実践、体験したこと。
古の智慧、叡智を伝えていく。
変わらない教えが「生き方の法」
それが悟り的思考、仏性 精神性の
髄 (シン) なのではないだろうか。
おまけ
最近やっと……
やっと、お釈迦様を近くに感じるようになった。
今までの私の祈り曼荼羅(意識の中)には
お釈迦様のお姿はなかった。
私の感じているお釈迦様はとてもCOOLで
合理的で、ビジネスマン。(つーんとしている)
それは変わらないけれど、
芯が強いあまり、強引な面もある
こだわりが強いが、
優しい人と言うイメージも現れた。(笑)
ストイックな事は違うまい。
人間は己を知れば知るほど
自己に失望し、ドロドロした欲に嫌悪するだろう。
そういう思いの先を「凝視」できた者が
気づきの先、悟りの先に行くのだろう。
師に出会い
釈尊に出会い?
場が整う。
「おまかせモード」に切り替わるのも近い
(きがするぅぅ)
迷わず進もうと思う。
最後の切り札は「信じる力」だ。
発菩提心 真言
#おん ぼうじ しった ぼだはだやみ
三昧耶戒 真言
#おん さんまや さとばん
この真言たちの頼もしさを知りました。