くろねこくぅまんplus

浸潤性小葉がんになった。そしてスピリチュアルに目覚めた。手術の事とか体の事とか、誰かの「気づき」になればいいな。

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声が枯れているのに音声SNSで、

主催しているクラブのシェア会を行った。

 

あるメンバーからの

皆が悟る事ってあるのか?

の問いに

私は笑ってしまった。

 

(今のところ)社会的な一定の悟りが、

自然の摂理に準じた理で

考えて動ける人が増えることが望ましい。

と言うところが

せいぜいでは無いかと思う。

(気持ちでは目指すは弥勒の世ですよ)

 

この繰り返しで、

全ての人間に一定の悟り的自覚と理が修まる

世の中に何年も何年もかかってなっていく…

 

社会の事を言う前に

自分が一定の悟り的自覚と理が

どういう事か知る必要があって…

と、

その前に、

自然の摂理に準じた生き方をしたい

とか、

真理ってなんだろう とか、

悟るってどういう事だろう… 

と考えて目指すこと 

が一番大事かと思うのです。

 

まず自分から

そのつぎに他者の為に…

 

誰しもに

いずれ真理への道を進むことになる

こんな情報を得ようとしている人は

早いか遅いかの違い

いい変えれば

 

やるか、やらないか。

 

結局それにつきます。

 

 

 

 

 

 

 

またもや

 

あるない論のこと

 

無いけどある を好むのは

ある ことに 

安心と損していないと言う暗示が欲しいんだ

と言う心理があることが分かった。

目には見えないし、

存在も確認出来ないけど、

あったのだ。

居るのだ。

在るのだ。

と、「ある」に執着している時点で

空でもなければ、無でもないのである。

 

まっすぐに

物質として目には見えないけど、

ここに在るのだ!と

思い込む必要もなく

念じることもなく

自然にイメージ(想像)しながら

空間領域を展開していける人が

どれだけ居るだろう。

 

疑問である。

 

 

宇宙には満ち満ちている

エネルギーがある。

あるのだ。 

しかし、

目視したり感覚認知できない領域と

私たちは相互で補っている。

ナイのは私たちが認知できナイからである。

ナイを作り出しているのも私たちと言うこと。

 

 

見えないけどある。

あるけど見えない。

どちらの考え方が分かりやすいか…。

 


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