くろねこくぅまんplus

浸潤性小葉がんになった。そしてスピリチュアルに目覚めた。手術の事とか体の事とか、誰かの「気づき」になればいいな。

階層だって廻ってる

 

如来は 自ら手をださない

それが大いなる慈悲であるからだ。

 

菩薩は

今生生まれたその命の尊さと

稀なチャンスが惜しくて

その命が可愛くて、

地球時間の寿命が尽きるまでに

一瞬でも悟れる縁をと

安寧への道が早まりますようにと 

手を変え品を変え目の前に現れる。

 

菩薩の優しさに気がついて

心を造り替えれればいいけれど、

優しくされて安心し、

その安心に居座れば、

まだ先があるよと

菩薩は新たな試練を与えるのでした。

 

それでも神仏の慈悲慈愛に気がつかない

可愛い命を 菩薩は

明王となり

心を奮い立たせ鬼にし叱咤激励するのです。

 

それでも、その熱さが嫌だ、怖いよと

逃げ出して…

それでも神仏は信じる者のお側に居るでしょう。

 

気がつかないのは…

極小極まりない点にすぎない私たち

 

命は常に大いなる如来(神仏)の

大きな慈悲のなかで生かされている。

 

 

 

 

嫌悪、不快、違和感を

ほっておく

観なかったことにする

気がつかないふりをする

それは、神仏の慈悲を無下にしていることとおなじ。

 

嫌な思いこそ経験の糧となり

本気で嫌なら繰り返さない意志をもち

心を造りかえる事ができる。

 

 

自然と生き方が変わる。

 

 


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おまけ

 

大いなるモノになればなるほど

他への干渉はしない。

 

善も悪もない事や

いけない事が無いことを知っているから。

でもそれは、大皿に値する

大いなるモノだからいえることで、

大いなるモノからする小玉にもみたない点な私たちは、我欲中心の選択行動をよいものだと思い、あたかも善だと行動する。

私、自分、我がいるその選択行動の先の先、

奥の奥、反転のまた反転 (表現はイロイロ)

がどういうことなのか腑に落とした理解をもって行ずる事ができて、やっと大皿の上の素材になれる。

 

私たち人間が、命を尊び喜んで自我の放棄ができる境地を体感で認知し他者と共有できる精神意識、心理に至らなければ、今の世の中で人類の本当の幸せは理解も実現もできない。(争いなんて無くならない)

(自我を失くせと言っているのではない。)

 

今もっている無意識から生じる

常識、観念、偏見をブッ壊し、再構築する必要があるのはそのためだ。

それには苦しみが付き物なのです。

なぜなら、

安楽だと思い、自分のエゴの都合のよい選択を

常識、観念、偏見として心がもち

自我(自分)と思い込んで、

自分を造り上げているからです。

 

本来の魂となるエネルギー(スピリット)は

それら苦を生じる素材は持ち合わせていません。

つまり

自我と言うものは無い

「ある」とする肉体と意を私(主観)とする器に入れて

自我を私だと思っているにすぎないのです。

 

この理論や理屈を

自分達の都合のいい場面でつかうから

変な思想が発生するのです。

変な思想は心や事象を捻らせる(拗らせる)だけです。

真理の教え 宇宙の理という料理は

段階を踏まなければ、

大皿にもなれず

大皿の上の素材にもなれず

料理でいえば、ニンジンの細胞の一部に

なれているかいないか……

 

エゴにコントロールされて生きている

と言う事は、

自分で存在さえ理解していない

無いに等しいものなのです。

 

 

自分(私が)という殻を破って

大皿の上の素材だったと知ったとき

やっとこ自らの意志で生命の輪を回す事ができる。

そう思うのです。