くろねこくぅまんplus

浸潤性小葉がんになった。そしてスピリチュアルに目覚めた。手術の事とか体の事とか、誰かの「気づき」になればいいな。

久しぶりに小学生のママをやって思った事②

前回のつづき

 

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子供がいると

・自分のモノの様に思ってしまう心理

・自分がやるべきと言う義務的な心理

・世間的な責任や、親だから当たり前

という考え方が付き物だ。

 

ごはんを作り、食事を与える

洗濯掃除し、清潔を保つ

忘れ物をさせない

などは保護者がやるの当たり前

と思い込む。

 

違うよ。

行動は誰がやってもいいんだよ。

お手伝いさんがやったっていいわけだ。

安心安全が保てれば。

 

保護者や親、家族が手をかけるべき所ってどこ?

 

 

 

親だから当たり前…

闇の深いレッテル 価値観だ

 

子供や家族は当然大切だ

守りたい存在だ

しかし、自分がやらなくてはどうにもならない事はこの世には何一つない。

しいて言えば、守るべき、保つべきは、己の心身だ

かーちゃんとーちゃんがぶっ倒れて困るのは子供

 

小学生の子どもが

学校が嫌で行きたくないとグズルとしよう。

法律とか行くのが当たり前とか言う世間的な事は置いといて考えよう。

 

なぜ保護者は学校に行っていて欲しいと思うのか

 

勉強が遅れる

勉強が出来なくなる

怠け癖がつく?

 

いや、どれも違う。

 

 

・自分の都合があるから

・安心安全の為

この2つしかない

 

家族の何が一番大事かって

自分の何が大事かって

そりゃ、命でしょ

 

全てを逆算してみ

 

勉強が出来なくたって

手足が無くたって

障害があると言われたって

 

目の前の笑顔があれば一番でしょう

体に触れられることが一番でしょ

 

他に何を望む?

 

お金があったって

清潔な生活ができてたって

食事に困らなくたって

勉強できなくたって

友達がいなくたって

笑える相手が居れば「よかった」って思うよね。

 

 

はい出た。

 

 

じゃー なんで学校へ行けという?

学校は行くものか?

行ってあたりまえか?

 

 

ドどん

 

 

保護者は「学校と言う場所に行っていて欲しい」のです。

自分の生活(時間)の為に

 

生活は自分の為だけか?

違うだろ、学校へいく彼らの為でもあるのだよ。

家族の為に。

 

どうして?

 

 

保護者(養護、扶養する者)が生活の為に仕事をしたり、

家事をしたり、家族の生活を整える為に動いているからこそ

休息をしたりする為の時間になるの

ずっと働きづめのママの努力を感じる

 

生活を円滑にする為に必要な時間になる。

 

家に子供を残し、仕事をしたり、通院したり、趣味へ出かけたりなどは、

子供を残して出かけて

何かあったらどうしようと言う心配と不安を抱えての行動となる。

最悪、休む 諦める という

自分的不本意な結果となって さらにストレスになる

その感情は大きな負担となる。

 

その点

8時から15時までは 学校へ行っている

先生とお友達と(誰かとは一緒にいる)

という安心があれば、心配ストレスはなくなる。

仕事にも身がはいるというもの。

 

時間を確保し、一定の信頼と安心安全も確保した事になる。

 

はいこれ。

 

学校は「時間の確保 と 安心安全と言う心理」

これがあるから、

子供の「学校へ行きたくない」と言う行動はストレスになるのだ。

 

話を変えると、学校が安心安全でなければ行きたくないと言われても屁でもないわけで、自分の時間を作るために別な方法で子供たちの安全安心を保とうと行動する訳だ。

 

まして、

勉強は大事だ! 学校は行くものだ! 行きたくないなんて甘えだ!

先生の言ってる事は絶対だ! 学校行かなきゃ勉強ができない!

などと、

学校=行くべき所

という固定観念のある人は さらにストレスになる訳ですよ。

 

 

子供は天才だ。

自分の好きな事、興味のある事は、ぐんぐん吸収し

スラスラとこなす。

意欲的に向き合えない、学校の勉強と言うシステムは

学ぶと言う観点からみるとズレているに違いない。

 

まして、

yesマンになり切れない子

個性の強い子

は、邪魔な扱いをされがちだ。

 

だだの個性なのに

一斉平均を求められる授業のやり方は古い気がする。

 

 

 

友達もいない訳ではなく

いじめられている訳でもなく

先生を憎んでいるわけでもなく

障害がある訳でもない

 

学校がつまらない 行きたくない

と理由も曖昧で、漠然となんとなく行きたくないと言う子

のほとんどは、

 

・学校に行く目的がない。

・意味がわからない。

・自由がない。(自分を出せない)

という事があげられる。

 

これは

モノ事を良く考えられる頭脳の持ち主ということなのだ。

天才肌で繊細ってこと。

 

 

つまり、彼らは自分の「行動と選択と伝達」しだいで

自分プロデゥースできる案件。

学校へ行っていないは、

ただの避難でしかなく改善にはならない。

個性豊かな子たちが行動を起こせないと言う事は、

大人である私たちの定めたルールや概念が邪魔している可能性は大だ。

 

先生に言っても無駄、親に言っても無駄、どうせ大人は....と

自分の好きな事を探そうとする事を諦めている子も多いと思う。

 

先生とクラスが合わない という場合は

次の年には不登校が解消する場合もある。

 

 

しかしだ、

家族としてチームとして生活している以上

ひとりの漠然とした主張で、

生活全体の主軸である者の時間と労力と権利が

阻害されるのは上手くない。

共倒れしたら基もない

 

「学校へ行きたくない」と言う主張を無碍にはできない

しかし、

子供の主張を受け入れながらも、どう

「学校へ行くこと」=親の都合と自分の気持ち 

向き合ってもらえるか。

子供が自身の「嫌だな」を受け入れて、

学校と言う場所に居場所をつくるか、

興味をつくるか、

妥協をお願いするか、

という協力が必要になってくるわけだ。

 

これはチームとしての話し合いと理解が必要になってくる。

 

 

「学校は行くものだから」

なんて答で

 

はい。そうですか。

で、納得する子供はいない。

親の権力だけでどうにかなる子供もいない。

 

子供だろうが 大人だろうが

生活を共にする家族でありチームだ

受け入れるばかりではなく、受け入れてもらうコトも大事。

家族が助け合うにはどうしたらいいか話し合いが必要になる。

 

ここまでの話を正し進めると、

「親の為に苦労、我慢している子がいる事になる。」

だとしても、

そこに止まり我慢を選択しているのは自分(子)である。

自分の居心地イイ場所、好きな事を探す行動は子に託すしかない。

これは信頼するしかない。

しかし、

学校の中に子が居心地イイ場所を創れるように学校関係者へ働きかける行動は

保護者である大人が手助けする必要があると思っている

 

 

 

学校が面白くない 楽しくない

は今に始まった事では無いが、

いつからだろう

学校要らない 

なんて言葉が生徒から出てくるようになったのは。

何かズレているに違い無い。

 

学校は学びを得る場所であり、

(学業だけでなく人間関係とか遊びとか)

興味と好奇心があるところだったはず。

遠い昔は、学校に行けて喜んでいたようだ。

江戸や昭和初期を考えてみた。

学校に行けなかったのは

生活の為だった。

農家は田植えや稲刈りの時は学校は休みだったとか。

 

学校に行かないを選択するのであれば、

最低限の家事が出来るように家の手伝いをして、

身の回りを1人で出来るようにすればいい。

人間が生きるのに必要なコトなんて今も昔も変わらない

 

田畑をやって自給自足。

ときどきバイトで肉体労働で稼ぎさえできれば

勉強なんていらないよな。

足し算引き算掛け算割り算 文字の読み書き

生活上の言葉の意味さえわかっていれば

人って生きて行けるんじゃないかな。

 

学校なんて行かなくたって独学で何とかなる事も多い。

 

 

自分の事を信じて

自分の居心地イイに居られれば。

 

無理して学校へいく必要があるなんておかしいよな。

無理しない学校がいいよな

 

 

保護者は自分の子ども達が、

「どうしたいか?」と

聞いたうえで、

どうしたら自ら進んで「選択、行動、伝達」できるか?

を考え、そんな場所を提供できるように整える事に

尽力するコトではないかと思う。

 

そして、自分の心身を守ること。

 

 

 

 

 

 

おまけ

 

矛盾なのよ

矛盾

 

やりたくないをやらせるって事は

矛盾なのよ

だからこそ

相手の主張を受け入れているだけの方が

楽だったりするのだけれど、

解決しないのよねぇ

向き合って行動しないと。

 

やーねぇ

矛盾や反するモノがあって成り立つ宇宙

宇宙の真理は面倒だがちょーシンプル....

どー言うこっちゃ(笑)