両者一生懸命なのは分かるよ。伝わるよ。
という前置きをお伝えして本文を。
先日
友人が
『◯◯先生も大変そうなのよ…。』と話をしてくれた
(彼女は修験占術の技術智慧を学んでいる先生がいる)
私「どうしたの?」と聞いてみる。
友人『生徒さんのなかに困った人がいるようで、◯日に△△へ行くので◆時位に会えませんか?や、◯月◯日私時間があるので会えますか?など、自分の都合に先生の都合を合わせようとする人がいる』との事だった。
また、友人自信も先生に対して、『…今回の講習内容と先に習った内容と同じなのですが…』と小言を言ったことがある。と話してくれた。
(損した気分になったのだとか…。)
修験という道の先生(師匠)への信頼、敬意と法(摂理や礼儀)から見て、今回の自分の行動と、とある生徒さんの行動は正しかったのか(善悪ではなく考えられる善ある行動だったのか?)を私に精査して欲しいと聴いてきた。
ある生徒さんに対しての先生の対応も聞いているが
当たり前の結果である。
会えるわけも、縁がツナガル訳もない。
道の道理を先生(師匠)から智慧として学ぶ。
ということは、セミナーやビジネス講習を受けている訳ではないので、
・講習を受けてやってる
・講習時間を買ってやってる
・お金を払うから利用する権利がある(自分は客だ!)
・生徒(弟子)なのだから教えて当たり前
という気持ちは実に醜く 浅はかな思考である。
傲慢、慢心の何者でもない。
そういう考えはビジネスの世界なら通用するとは思うけど、道を学ぶと云うことは、そう言うことではないのだ、用済みだからバイバイの世界ではない。
また、自分の都合に相手の都合(しかも先生の)を合わせてもらおうなんて、『道を学ぶ気あるのか?』の疑問に値する。
なぜなら、
相手(先生を先人として)敬う気持ちが伝わってこない。感じられない。
自分(コチラ)から先生の価値を下げている行為になっている。
自分で学ぼうと集って来たのに自分で選んだモノの価値を下げる。笑える…。
(恩を仇で返すってヤツだな)
先生と思い畏れ、この人の智慧を受けよう(会得しよう)と思うなら、そのように相手の流れ(予定や考え)に従ってこそ、学びとなるのだ。
なぜなら、
先生の生活リズム、流れの中で
先生(師匠)が何年も積み上げた実績経験時間を的確に先生(師匠)のセンスからその時の要点を集約して伝えてもらっている訳だからね。
先生の時空間のフィールドに入って学ぶ感じ。
先生の世界観から先生の智慧を
伝える=学び 経験知識=智慧
を集約してもらってる訳よ。
よーくよーく考えてみ
私たち生徒(弟子)は
すごく節約時短じゃない?🤣
ましてや、その先生を選んだのは自分で、尊敬もしてると言いながら、その先生の叡智(時空間とか世界観)を感受できないのは、自分の感度が鈍ってるのでは?という考えには及ばないのか?と思うけど。
(懺悔懺悔六根清浄の思いになって日々精進と思うのが道よねw)
あの先生が悪いとか 教え方が…と文句を言っているとするなら、その言葉は全て自分の感度(センス)がないと言っているようなものだ。
意味分かる。
選んだのは自分だよね?
先生は先生として成り立っているんだよ。
失敗があるとすれば自分だよね。
自分の時間の流れに先生をあてがおう
なんてアンタ何様の領域ですね。
と、お答えした。
友人は納得してくれた。
習う、学ぶ という意識(概念観念の層)も人それぞれだし、用途もあると思うけれども、
人生観、神仏の事や法、技術などの術を学ぶ道
というのは身口意の清浄なくしては成り立たないので、自分の人生かけて取り組む学びが『道』という世界だと思うんだけど。
華道や剣道、茶道や柔道、だって道な訳だけど
同じだからね。
ビザ屋さんだって魚屋さんだって専門的に優れていれば道だよねw 1日ではプロにはなれんだろ。
それぞれの世界の道を極めた人は
人として優れていると思わないか?
イチローや大谷、ヒデや羽生くん だって
将棋の羽生さんもスゴイよね。
信念貫いて
自分の行動を正念、正智を怠ってはいないはず。
(八正道参照)
他人から学んでる
生かされている
という自他共への思いやりが
稀薄なのでは?と思うけどね。
おまけ
全てがツナガッテイル
私たち凡人は忘れることに
長けているので、すぐに忘れる。
そして、相手の言いたいことの半分も
伝わっていないこともある
伝えきれないこともある。
理解できていると思ってっても
自分に沁みていなければ意味がなくて
何度も何度も繰り返し
コツコツ心身に向き合っていると
いつかピコんと閃く事があるのが
この世界なんだよ。