くろねこくぅまんplus

浸潤性小葉がんになった。そしてスピリチュアルに目覚めた。手術の事とか体の事とか、誰かの「気づき」になればいいな。

循環はグルグルと続く

 

できないことを認める

出来ることをヤル

(自分へ向けたベクトルを内観という)

 

できないことをやれ ではないのです。

出来ることはなんだろう なのです。

 

 

 

物事の解釈、見方の共有は

自分の考え方を増やすチャンスだと捉えている

(自分へ向けたベクトル)

 

タイミングも気付きも外ベクトルで光を称す事は

どうもナイらしい。

(内側に向けたベクトルの他者空間への描写は鏡に写し出された姿についていけない。合わせ鏡は受け手の準備がないと惨事で終わる)

 

では、どう奉仕するか…

  

  やりたくても出来ない… は悲しすぎる…

  だから出来るモノがやるんだね。

 

受け入れる 包括する 包む 祈る

自分が自分にただやると言い聞かせ

常習するのね…。

あーこう言う事も 自利➡️利他 かぁ

(ナン順目かなぁこの答え…深まりは違うけど)

 

だから あれがあーで これがこーなのか

だから これがこーで こーなのか

だから ここがこーなのね…。

体感を得て深まる意識の世界

全部つながる。

(ナン順目だろ…きっとこれを永遠に続けるのかな)

 

人として上昇した人は底辺に戻り

広がり続けている。 グルグル廻り続けている。

だからこそ優しく 愛が見えない。

レイヤーが違うとも

層が違うとも言える。

みてるトコが違うと器がデカクテて見えないのよ。

 

 

やりたくても出来ない…がこんなに悲しいコトだなんてショックが大きかったここ最近の出来事。

 

経験者の信は強くなるのだ。

行(確認)は続く…。

 


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先ほど

 

仲間の言葉に勇気つけられ

懺悔の可能性

祈り力の理解が深まった。

 

懺悔無しに悟り(覚り)は無いからね。

 

 

静果先生の神仏に向き合う姿勢はいつもコレダ。

受け止めるというより包んでいる。

 

 

 

脇からみても

後ろからみても

この空気感が漂っている。

仲間が共有してくれた文章を読んで

静果先生の姿を思い出した。

 

静に向き合ってる。