くろねこくぅまんplus

浸潤性小葉がんになった。そしてスピリチュアルに目覚めた。手術の事とか体の事とか、誰かの「気づき」になればいいな。

六根清浄

前にも六根清浄の話したかなぁ…

何度いってもいいもんだから

書こう。

 

 

ざーんげ(さーんげ) ざんげ(さんげ) 🎶⛰️

六根清浄(ろっこんしょうじょう)の 六根

龍神祝詞にも2ヶ所出てくるよね 六根

 

目 耳 鼻 舌 身 意の6つ

前の5つは身体的感覚の五感

 

根、境、識 がセットで

生きていることの本性(有物)

となり

根+境が心すべての情報源で

識を生み出している (らしい…)

 

人間はこの一連の流れをオートマチック?

自動運転的に行っているから

当たり前過ぎて

どこが根で

どこから境で

何がどう合わさって識になるのかさえ ワカラナイ

識であったことさえ ワカラナイ。

理解して行ってないわけよ。

 

 

根を細かく言うと22根といっぱいあるそうだけど…

(覚えてない…)

とりあえず6つの根

 

六根は感覚器官(厳密に言うと意は違うけど)

感覚器官から得た情報を

居心地よさ(保守)や記憶から

好き嫌いなどと

結びつけ作り出した感覚が

感情となる訳です。

(意は知らずに染み付いちゃっている無意識とでも言いますか…そんな感じ)

 

ワタシには美味しい物が、

アナタには美味しくない。

とか

ワタシには心地よいが、

アナタには心地よくない。

とか

好き嫌いなどの好みや価値観が別れるのは

この六根から得た情報

過去の記憶や認識と照らし合わされ⬇️

                ⬇️

好き嫌い、よい悪い ⬅️ ⬅️ ⬅️

行くいかない ⬅️ ⬅️ ⬅️ ⬅️

の差が発生した時点が「境」

 

根と境で 識別となり「識」と表してる

 

と言う流れ。

 

 

つまり

根、境、識 で個性になっていくと

考えられるのです。

 

自我、個性、私と言う存在(認識)は

「無い」と仏法で解かれているのは、

人の数だけ根、境、識があり

絶対的正しさが計れない 

無限、無量大数だから=同じモノは無いから。

と、

 

そもそも、私たち人間の身体と心は

外部、他者からの情報と

不確かな感覚と価値観と記憶から等々の、

無数の情報から自らが造り上げた人工物

 

とも考えられ

 

でありながら、

 

その時の環境や感情や精神状態やらで

日々変わり行く変則的なモノ(変化するもの)

なので、

本質(真実)ではない と説く訳です。

 

だから自我なんて無いでしょ 

と言うわけですね。

 

 

本質とはなにか と言ったら

物の見方、価値観から世界の見方を変えても

ぶれない軸と

普遍でありながら変則的であり続ける。

生き方ソノモノ。

生き物だから変化するってこと。

(矛盾なんですよw)

 

本質でありながら本質なんか無いよとも

言い放てる イイ加減な様♨️

じゃないかと思うのですよ。

 

 

感情の仕組みや

物事の成り立ち、

意識とは エネルギーとは 

を知って生きたいか 生きたくないか、

 

真実と非真実

今、選択するべきか、選択せざるべきか

今、行動するべきか 行動せざるべきか

今、話すべきか、話さぬべきか

モノゴノの本質を見抜き、

摂理に乗っ取った自然な動き(生き方)

を直感的でありながら意図的に

積極的でありながら受容的な生き方

 

懺悔六根清浄とは

 

ただ、やみくもにごめんなさい 

許して下さい を

懺悔としているわけではなくて、

ただ、龍神さんに穢れを祓ってくれと

言っている訳ではなくて、

六根が清くあれば、

変化していく世の中や多くの情報も、

今の自分に適した選択行動伝達ができるのだ!

と言う自負や癒しや初心忘るべからずテキな

前向きポジティブな意味もあると私は考えている。

(謝る、へりくだる、謙虚である事はマストですけど)

 

懺悔と六根清浄 には

ふかーい智慧が隠されているのです。

 

誇りを持った懺悔であれ。

 

 

 

 

 

 

おまけ

 

簡単にいうと

六根がキレイ(整っている)なら

物事の真実を見分けながら

苦を苦だと捉えずに

滑らかに生きれるよ

と言うことなのかと。

 

悟り(修練、修学)に終わりはない